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bluewoody のミニエッセー・シリーズ

〜英語は旅路の彩り〜 14
 
  わが通勤英語学習事情  平成13年3月

電車通勤をはじめて十カ月ほどになる。最初、車内ではできる限り英語のテープを聴き続けよう−と張り切っていた。

なにしろ、乗っている時間は、往復で二時間半ほどはあるのだ。

毎日、これだけ聴き続けたら「英語耳」はかなりのものになるのではないか。期待は大きかった。意欲も。



意気込みどおり、最初の数カ月は、まあしっかりと聴き続けることができた。その理由は、まず、車通勤自体が、僕には新鮮な体験だったことだ。それまでは、職場へ自転車で二十分ほどの単身赴任とか、職場自体が住居−などという、仕事密着型の暮らしを長く続けていたからだ。



第二に、聴くための教材は新しく買い込んだもので、興味を引いたこともある。



こういうわけで、通勤をはじめてから一カ月半ほどで受験したトイックでは、自己最高の800点をマークすることができたのだ。「やればできるじゃないか」。当時、五十歳の僕は、この結果に大いに気をよくした。「この調子でいけば、来年あたりは800点超えも夢ではないのでは」。希望は、ものすごく膨らんでいく。勢いである。



ところが、数ヶ月もすると、電車内でのリスニングが思い通りには、できなくなったのだ。テープを聴き始めて十数分もすると、居眠りをするようになってしまった。家から職場まで、往復四時間。五十歳。やっぱり、いわゆる「疲れ」が出てきたらしい。



「今日こそ、居眠りはすまい」。午前七時三十二分、始発。

座席に陣取った私は、イヤホンを両耳に突っ込み、気合を入れて聴き始める。ナレーターの声が、マシンガンの銃弾のように、なだれ込んでくる。意味は、なかなかとれない。考えても無駄だということは、分かっている。



十分ほどが過ぎる。もういけない。暖房の効いた座席。適度の振動。うとうとと、し始める。電車は、大人の揺りかごか。

そういえば、朝の電車で居眠りをしている人は、実に多い−などとおもいつつ、眠りの世界に浸りきっている。気持ちのいいことこのうえない。



ふと気づく。終点まで十数分。アタマは、ぼんやりしている。職場まで二十分ほどを歩く。仕事が始まる。パソコンを打つ。



帰路の電車内では、読書をするようになった(車内が空いていれば、たまには、ビールを飲みながら)。これも、朝と同様の結果になってしまう。すなわち、本を読み始めてしばらくすると、心地よい世界へ旅立つ。



これではいけない。通勤時間がもったいない。「もっと、しゃっきりせんかい」−。僕の生真面目な意識はこう叫ぶ。が、別の自分はささやく。「まあ、そんなにしゃかりきにならんでも。ぼちぼちいきなさいよ」。どっちも僕の心から出たコメントではある。



二つの意識のせめぎ合いの狭間で、本来、真面目な性格の僕は懊悩しているかというと、そうでもないのだ。いまや、こう思うことにしている。「ええい、居眠りしようとしまいと、まったく勉強しないよりは、上等じゃないか」。居直りである。

これってやっぱり、英語を「趣味で」学んでいる人間の甘さなんでしょうかね。

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